街角の観察:無意識の中にあるエレガンス

街角の観察:無意識の中にあるエレガンス

NagaoDaisuke

 

娘を保育園に送り届けたあとの

ほんの少しの寄り道。

平安蚤の市をぶらりと冷やかしてから

店に向かう途中の信号待ち。

 

 

ふと、視界の端に入ってきた一人の外国人女性。

その姿に、なぜだか強く惹きつけられた。

特別に目立つわけでもないのに

圧倒的な“完成”がそこにあった。

 

ややくすんだオリーブカラーの

ママチャリにまたがり

ミリタリー系のジャケットを無造作に羽織っている。

袖は軽くロールアップ

背中にはアウトドアブランドのナイロンザック。

ここまでは割とよく見かける街のカジュアルな装いだ。

 

けれど、決定的に違ったのは、足元だった。

 

 

ミックスカラーのグリーンソックスに

同系色のグリーンレザーのローファー。

しかもローファーは決して新品ではない。

少し履き込まれていて、艶も落ち着いている。

それなのに、いや、それだからこそ

このコーディネートの中で異様に存在感を放っていた。

 

色合わせにおいて、“同系色で揃える”

というのはよくあるテクニックだ。

けれどこの人の場合、それが意図的なものではなく

生活の延長に自然と生まれた調和のように感じられた。

 

つまり、「ファッションしている」のではなく

「日常としての衣服をまとう」という感覚。

ここに、日本人がなかなか到達できない

“力の抜けたおしゃれ”の美学がある。

 

我々日本人が同じような

ジャケットとパンツの組み合わせを選んだとして

足元にはきっとスニーカーを持ってくるだろう。

それが定番であり、安心感があるから。

でも彼女は違った。

歩きやすさや実用性より

むしろ「自分の持つ空気感」に

足元を合わせたような印象だった。

 

この“違和感”こそがファッションの妙だと思う。

「ちょっと外してる?」と思わせるバランス感が

結果的に唯一無二のスタイルを生んでいる。

 

文化の違いも大きい。

ヨーロッパや北米の都市では

服というものは自己表現であり

同時に日常の一部であるという認識が根付いている。

それは決して“頑張っている”わけではなく

「自分らしさとは何か?」を

問い続けた結果として自然に現れる。

 

彼女の足元を見て、改めて思った。

「スタイル」とは、流行やテクニックではなく

自分自身との静かな対話の

積み重ねでできていくものなんだな、と。

 

だからこそ、そのグリーンのローファーは

ただの靴ではなく

彼女という人間の“生き方”すら

映しているように見えたのかもしれない。

 

信号が青に変わる。

彼女はさっとペダルを踏んで

街に溶け込むように走り去っていった。

 

「何気ない朝の信号待ち。

でもそこには、気取らないおしゃれの

ヒントがちゃんと詰まってた。

 

 

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